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42 無名さん
重厚な防音ドアを押し開けた瞬間、外の世界の喧騒は寸断され、濃密な静寂が俺を包み込んだ。店内の照明は極限まで落とされ、辛うじて視界を保てる程度の暗闇が、男たちの輪郭を曖昧に溶かしている。スピーカーからは、心臓の鼓動を急かすような重低音の音楽が、腹の底を直接揺さぶる。その響きが、俺の理性のタガを少しずつ緩めていくのを感じた。俺はいつものカウンターの端で、琥珀色の液体が注がれたロックグラスの氷を、カラン、と音を立てて転がしていた。今週も、あの「氷の部長」こと、上司からの理不尽なまでの詰問を耐え抜いたばかりだ。「営業成績は数字がすべてだ。過程に甘えを出すな」あの冷徹な声が、耳の奥でまだ響いている。感情を排した切れ長の瞳、まるで俺を仕事の道具としか見ていないかのようなあの視線。思い出すだけで、胃の奥から吐き気がせり上がってくる。きっと、あいつの体には、血の代わりに冷却水でも流れているのだろう。
「……あ、あの、すみません」
店員の困惑した声に、俺は現実に引き戻された。視線の先、カウンターの反対側の端に、見覚えのある、いや、見間違えるはずのない背中があった。その背中は、普段の完璧な姿勢とはかけ離れ、まるで糸が切れた人形のように、だらしなくカウンターにもたれかかっている。
「この人、お知り合いじゃないですか? 二時間前からこの状態で……さっきからうわ言で誰かの名前を呼んでるんですけど、もう限界みたいで」
俺は息を呑んだ。そこにいたのは、社内で「鉄の規律を体現したような男」と恐れられる営業部長の面影など微塵もない、無防備に崩れた「男」だった。高いオーダーメイドのスーツには無数の皺が寄り、いつも喉元まで硬く締められていたネクタイは、無様に緩んで床に届きそうだ。はだけたシャツの隙間からは、白磁のような鎖骨が露わになり、酒の熱に浮かされたのか、首筋まで赤く染まっている。普段の彼からは想像もできない、そのあまりにも脆弱な姿に、俺の心臓は奇妙な音を立てた。
43 無名さん
(……は? なんで、上司がここに……?)
ここはゲイバーだ。あの潔癖で冷酷な上司が、よりによってこんな場所で、醜態を晒している。その事実に、俺の脳裏には、昼間に受けた冷徹な叱責がフラッシュバックした。完璧な上司。常に俺を見下すような視線。俺を「仕事の道具」としてしか見ていないあの態度。それが今、俺の目の前で、毒を抜かれた獣のように喉元を晒している。嫌悪感と、それ以上に、今まで感じたことのないほど暗く熱い衝動が、胃の底からせり上がってくるのを感じた。それは、長年積み重ねてきた反発心と、彼への理解不能な興味が混じり合った、複雑な感情の奔流だった。
「……ああ、知り合いですよ。仕事で、たっぷり世話になってる『上司』です」
俺はグラスをカウンターに置き、重低音に身を任せるように、ゆっくりと彼に歩み寄った。この「氷の男」の、隠された全てを暴いてやる。そう、心に誓いながら…

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