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59 無名さん
ここは甲州(こうしゅう)の笛吹川(ふえふきがわ)の上流、東山梨(ひがしやまなし)の釜和原(かまわばら)という村で、戸数(こすう)もいくらも無い淋(さみ)しいところである。背後(うしろ)は一帯(いったい)の山つづきで、ちょうどその峰通(みねどお)りは西山梨との郡堺(こおりざかい)になっているほどであるから、もちろん樵夫(きこり)や猟師(りょうし)でさえ踏(ふ)み越(こ)さぬ位の仕方の無い勾配(こうばい)の急な地で、さて前はというと、北から南へと流れている笛吹川の低地(ひくち)を越してのその対岸(むこう)もまた山々の連続(つながり)である。そしてこの村から川上の方を望めば、いずれ川上の方の事だから高いには相違(そうい)ないが、恐(おそ)ろしい高い山々が、余り高くって天に閊(つか)えそうだからわざと首を縮(すく)めているというような恰好(かっこう)をして、がん張(ば)っている状態(ありさま)は、あっちの邦土(くに)は誰(だれ)にも見せないと、意地悪く通(とお)せん坊(ぼう)をしているようにも見える位だ。