福生市民九条の会

過去ログ7 2006/6/4 0:08

▼9条を考えるものより
ホームページの管理はやっているのですか?
削除するべきものは削除しなさい。
ページの品位にかかわる!
6/4 0:08

▼マキ
女性 22歳 北海道
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なし
5/31 19:40
HP

▼長田富睦
男性
そのまた、続きです。これで最後です。

私はこの取り組みにあたり、江井英雄著「自由民権に輝いた青春」五日市郷土舘発行の「五日市憲法草案の碑」建碑誌、朝日新開発行の「多摩の百年」を読みましたが、今回の学習と併せて改めて当時の民権運動の「凄さ」と千葉卓三郎や深沢権八等 2O 代の青年がこの時期に人権や民主主義、平等についての考えを持っていた事には驚きました。現在政府及び自民党等は永久に戦争を放棄した憲法九条を改悪しようとし、人権条項まで変えようとしていますが、五日市憲法を訪ねる企画は的を得たものでした。
この企画を成功させる為に3回も下見を重ね、駐車場の確保や昼食の場所の確保、学習会の会場の予約、資料集め等々準備をしました。また当初の予定では 15 人ほどでしたが 参加者が日増しに増えて嬉しい悲鳴を上げ、車の手配が大変でしたが終わって見ると参加者には満足頂け大成功でした。
5/20 22:42

▼長田富睦
男性
前会のつづきです。

権八は秀才で、15歳で村長になり、西洋学を学んでいたようで墓石の標紀が解かるようですが、このような標示のお墓は見た事が有りません。こんな時代にこのようなお墓とは驚きです。また深沢家は 6O町歩もの山林地主でもあり資産家で、貴重で高価な書物を買い入れ蔵書家でもあったようで、その書物を読む為に集まったとも言われ千葉卓三郎の財政的支援者でもあったようです。

次に訪れたのは、五日市郷土舘です。早速2階の五日市憲法の展示を見て江井先生の説明を聞きましたが、この説明には舘の職員も同席しました。展示を見学した一行は館内にある移築された旧市倉家に入り昼食です。ここでは舘の職員がお茶と今朝摘んで来たばかりの五日市名産の「のらぼう」を出してくれ、私も先日釣って来たヒメマスを甘露煮にして食べて頂く等参加者各人が持参した弁当を頂きながら楽しい昼食会となりました。

ゆっくり昼食を済ませた一行は、旧五日市役場であり、現在の出張所に移動し、「五日 市憲法草案の碑」の前に立ちました。この碑は、1979年(昭54)11月に中学校の脇に建てられており、碑には憲法草案の抜粋 6 条が刻んであります。尚、これと同じ碑文 の碑が千葉卓三郎の出生地である宮城県の志波姫町と、彼が学び、眠っている仙台市に建立されておりますが、ほぼ同様の碑が 3 箇所に建てられた事は珍しい事です。一行は江井先生の説明を受けた後、記念撮影を行ないました。
つづいて、五日市出張所 ( まほろば ) で学習会を行ないました。講師は江井先生で、深沢家の土蔵に最初に入った時の事や、千葉卓三郎の足跡を辿り、多摩の山間地である五日市での民権運動、その中での学芸懇談会が徹底的な民主的な運営と討論で五日市 憲法の草案が出来上がった様子を発掘された資料を基に説明されました。

最後にこの学習会に福生以外から参加頂いた青梅市とあきる野市それに色川フォーラムの人達、等から挨拶、感想、訴えがされ「五日市憲法を訪ねる」は終了しました。
5/20 22:41

▼長田富睦
男性
福生市民九条の会は 5月7日、「五日市憲法を訪ねる」会を開催したところ、33名が参加しました。
1O 時にJR牛浜駅東口に集合した参加者は、会を代表して長田紀補子の挨拶と鈴木金
吾事務局長による日程の説明の後、8台の車に分乗し、私の車の先導で出発しました。
この企画は福生九条の会が憲法記念日の行事の一環として取り組まれたもので、記念日の5月3日には福生駅にて午前11時30分より12時30分まで、街頭宣伝とピラまき、カンパ、署名活動を行い、午後2時からは会場を松林会館に移し、「憲法の話」のビデオを鑑賞しました。
この日の「五日市憲法を訪ねる 」は、講師には代表委員の一人である安永弘紀さんの紹介で、 1968年(昭43)に五日市町の旧深沢家の土蔵から発見された五日市憲法を、 東京経済大学教授色川大吉氏の学生として参加し土蔵の中に入った一人であり、その後草案起草者の千葉卓三郎の研究をして「民権運動に輝いた青春」や「民衆憲法の創造」の著者で、元和光大学や東京経済大学の講師、江井英雄さんにお願いしました。
車は予定通り 1O 時 1O 分頃出発し、五日市駅前を通り西武信用金庫前の信号を右折して旧深沢村のはずれにある旧深沢家の土蔵の前に着きました。駐車場は隣のお寺さんの所有で、前日下見に来た際、了解を得ていました。
深沢家の門は残っており、くぐり戸から入り屋敷跡にのぼると、右側に土蔵があります。
江井先生の話によりますと土蔵は東京都が重要文化財にしてから再建されたもので、発見した当時、屋根はぼろぼろで、蔵の中はほこりが積もり、鼠や昆虫の巣になっており発見された書類は一寸触ると崩れそうになるような状態だったそうです。発見された「五日市憲法草案」も同じような状態で、崩れない為にフエルアルバムにそっと入れ、現在もそのまま「重要文化財」として保存されているそうです。旧屋敷跡は裏が山ですが、その上の方に深沢家のお墓がありました。参加者はそこに集まり用意して来た生花を供えました。 お墓を見ると、深沢名生の墓石の憐に息子の権八のお墓があり、墓石には「権八深沢氏の墓」と記されていました。
5/20 22:38

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